沿革史

劔神社の立地

劔大神が鎮座する神社の杜は、福井県の西部、丹生山地のほぼ中央に位置する織田盆地の中心に広がっている。福井市・鯖江市・越前市からいずれも車で20分ほどの処にあり、海岸部と内陸部とを結ぶ交通の要所で、東西南北に延びる道路の中心にあって、早くから発展した地域である。

律令時代の越前の国は、南から敦賀郡・丹生郡・足羽郡・坂井郡・大野郡の5郡が置かれていたが、弘仁14年(823)に丹生郡の東を割いて今立郡が新たにできる。また、敦賀郡には伊部・鹿蒜(かひる)・与祥(よさか)・津守(つもり)・従者(しとべ)・神戸(かんべ)の六郷が置かれていた。当地域は、『和名抄』の敦賀郡の伊部郷にふくまれる一帯と考えられていたようで、劔神社と摂社織田神社、さらに近郷の伊部磐座神社は『延喜式』神名帳では敦賀郡に所在する式内社に比定されている。また、郷内には、間人(はしひと)、秦(はた)、伊部などの各氏族が住み、織田盆地の平地には耕地整理の跡ともいえる一町四方の条里制の地割も見られる。


劔神社の創祀

劔神社の創祀については、第七代孝霊天皇の御代に、伊部郷の北に聳える座ヶ岳の峰に素盞嗚大神を祀り、その後、第十一代垂仁天皇の御代に、伊部臣という人が和泉国鳥取川上宮で造られた千口の劔の一口を戴き御霊代として祀り、「劔の大神」と称えられてきたことが縁起として伝えられている。
また、神功皇后摂政のころ、第十四代仲哀天皇の第二皇子・忍熊王が素盞嗚大神を現在の織田の杜に遷されたことを、座ヶ岳の故事として次のように伝えている。
     
忍熊王は、瀬田川の戦いに敗れて越前国に入られ、敦賀から海を渡って梅浦に到着された。そこで良民が賊に苦しめられていることを大変哀れみ、その賊の討伐に立ち上がられた。悪戦苦闘することたびたび、ついに疲れのために大木の洞穴で身を休めていると、霊夢があって「皇子努力せよ。我今なんじに霊剣を授くべし。我はこれ素盞嗚神なり」と。ほどなく座ヶ岳で伊部臣という者から神剣を受けられ、この地を無事治める事ができた。王は織田の地に社殿を営み、この神剣を素盞嗚神の御霊代として祀り、民を導き地方開発に力を注がれた。しかるに惜しくも若くしてお隠れになられたので、郷民はその恩に報いるために神として祀ることとなった。すなわち忍熊王を素盞嗚神の再来と敬い、お二方を一座の大神と拝することとなった。
   
劔神社は、忍熊王が賊徒討伐の時、素盞嗚大神の御神威をいただき窮地を脱し、この地を無事治めることができたことに対し、神恩感謝の誠を捧げ社を造り、素盞嗚大神を主神に氣比大神を配神として祀ったことに始まる。更に忍熊王が薨去されるや、その徳を慕い御祖神と仰いで合祀し、三座の神を劔大明神と称えた。劔神社に伝わる室町時代後期の様子を示す『劔神社古絵図』(口絵)では、劔神社の本殿と小さめの氣比社の2社に別けて祀られている建物の構成を見ることができる。


朝廷とのかかわり

 

劔神社は奈良の昔より越前国二の宮と称えられ、一の宮の氣比神宮とともに北陸道鎮護の神として朝廷から篤く崇敬を受けてきた。当神社が朝廷から賜った神階を古記録に見てみると、宝亀2年(771)従四位下勲六等の位に叙せられたことを始め2)、貞観元年(859)には正四位下3)、長徳4年(998)には正一位勲一等の位に累進した4)。また、神封については天平神護元年(765)に神封十戸を賜わったことを初見に、宝亀2年には食封二十戸田二町、大同元年(806)には封戸三十戸を賜わった5)。さらに江戸時代の文政10年(1827)には伏見宮の祈願所となるなど6)、数々の資料によって劔神社は早くから朝廷にその名が知られ、崇敬浅からぬ社であったことがわかる。
また、当社に伝わる国宝の梵鐘は、神護景雲四年(770)の陽刻がなされたもので、第四十九代光仁天皇が神馬と共に大願成就の御礼として奉納されたと伝えられている。

武門武将の崇敬

忠義の武将小松殿と称えられる平重盛は、父平清盛の横暴によって劔神社が焼失したことを憂い、社殿の復興を行い、3,888町歩の神領を寄進したことを縁起書は伝えている7)。また、戦国時代に越前国を支配した朝倉氏は、初代孝景(敏景)から、氏景、貞景、孝景、義景の五代にわたり、劔神社を朝倉氏の祈願所と定めて篤く信仰し8)、織田の地に館や城を置き、一族を派遣して神社と領地を保護してきた9)。
織田信長公の先祖は劔神社の神官をつとめてきた。室町時代のはじめ頃越前国の守護斯波義重は劔神社の神官の子であった常昌を家臣にとりたて、尾張国に派遣した。苗字は故郷の地名をとって織田と称したといわれている。明徳4年(1393)藤原信昌・将広親子が劔神社再興のため力を尽くすことを誓った置文の文書が劔神社に納められているが、この織田の荘の荘官の信昌・将広父子が、織田家一族の祖先にあたると考えられている10)。織田氏は尾張の守護斯波氏のもとで活躍して勢力を伸ばし、尾張国の守護代となり、英傑織田信長公を生みだした。信長公は朝倉氏を亡ぼして越前を掌握した直後、神社に対し土地の領有や臨時の税の免除を認め、劔神社を氏神と仰ぎ神領や領民を保護した11)。
天正3年(1575)に越前の大部分の支配を任された柴田勝家は、劔神社・織田寺に対して様々な税の負担を免除して優遇した。その中に「当社の儀は殿様御氏神に候へばいささかも相違あるべからずの状・・・」と書かれた書状がある。これによって織田信長自身も自己の系譜を認識して劔神社を氏神として崇敬したことを伺うことができる12)。また柴田勝家も天正5年(1577)4月には、検地を行い織田寺社領として1,588石余りを寄進して崇敬した13)。
しかし、豊臣秀吉の時代になると、慶長3年(1598)には越前国で検地が行われた。この検地の様子を江戸時代の『享保迄心覚書』には次のように物語られている。「劔大明神領四千石余ノ所ハ信長臣下柴田勝家公改メ張御座候、時ニ叉慶長三年木村宗左衛門社領へ御縄入ニ付一乱起シ此故ハ木村宗左衛門ハ羽柴秀吉公ノ御臣下、又社人社僧申ハ社人タリシ信長公ナレバ秀吉モ則且信長公臣、此宮ヘ縄討思ヒモ寄ズト云、」14)。劔神社側は当地を担当した検地奉行木村由信の怒りに触れて37か所の社殿すべてが焼き払われ、天正5年(1577)の社領千五百石は没収、神社境内地鏡宮林だけが残った。やむなく検知奉行に救済を哀願したところ、ようやく19屋敷の1町2反余りが免除地として認められたにすぎなかった15)。
江戸時代にはいり劔神社は徳川家康に神領復帰のことを願いでた。徳川家康の次男・福井藩主結城秀康は越前一国を与えられ、慶長6年(1601)に越前北の庄に入府し、同8年(1603)「劔大明神領」として織田村のうち三十石を新たに劔神社に寄進した。しかし、神社の復興は進まなかったが16)、寛永5年(1628)結城秀康の三男・大野藩主松平直政から二十一石参斗二升五合が追加寄進を受けてようやく復興の緒となった17)。
明治のご維新には劔神社の社領のすべてを政府に上地したが、明治四年に二百六十両を納めて一部払い下げを受けた。同7年11月には神社の格は郷社に、同34年11月には県社に昇格したが、北陸の由緒高い社につき県民の官社昇格の機運は盛り上がり、大正13年以来政府に意見書を提出すること4回、昭和3年御大典の秋11月10日に越前国二の宮は官社の国幣小社に加列された。

劔神宮寺について

福井県には霊亀元年(715)に建立されたと伝えられる氣比神宮寺(敦賀)と、養老年間(717~723)に道場を建て仏像を安置したという若狭神宮寺がある。いずれも日本で最古の神宮寺である。
一方当社に関わりある劔神宮寺のことは、所蔵する国宝の梵鐘に「劔御子寺鐘神護景雲四年(770)九月十一日」の銘文があり、その存在と時期が確認できる。また、『新抄格勅符抄』に「天平神護元年(765)劔御子神 神封 十戸」と記されていることから、神宮寺の創建が梵鐘の年代より遡る可能性もある。さらに、近年織田盆地東端の小粕窯跡から発掘された白鳳期末(710年頃)の平瓦や軒丸瓦類が出土した。この出土品の供給先が劔神社境内の寺院である確立が高くなれば、劔御子寺は日本最古級の神宮寺となる。
このように劔神社は奈良時代より神仏習合がはじまり、最盛時には36坊17院を擁していた。また、『文徳実録』によれば斉衡二年(855)には、神宮寺におよそ10名の僧侶が勤めていたことも記されている18)。


摂社織田神社

 劔神社の摂社織田神社は保食(うけもち)神(のかみ)を主神と祀る産土(うぶすな)の社であったが、神功皇后摂政十三年に誉田別尊が敦賀の氣比神宮へ参拝された折、武内宿禰を織田へ遣わし、兄忍熊王を敬慕して劔大神に合祀したと伝えられている。この由緒によって、忍熊王の父足仲彦尊(仲哀天皇)と弟誉田別尊(応神天皇)の2柱を当社に合祀し敬い祀ることとなった。

当社は『延喜式』神名帳に敦賀郡の所在とあることから、敦賀市野坂に鎮座する織田神社に比定する説がある。そもそも織田神社の社殿は室町時代後期の様子を示す『劔神社古絵図』に見える気比社のことで、古くから「織田大明神」「織田劔大明神」の名で総称されてきたことは、摂社の社格を越えた劔神社との深い結びつきを物語っている。
明治8年に末社八幡宮を気比社に合祀してからは、八幡神社と別称されているが、いずれにしても、両社は同一視あるいは劔神社の摂社と見做されてきた。


参考

1)劔大明神略縁起 嘉歴3年(1328)、 年月日未詳
2)『続日本紀』宝亀二年(771)「充越前國従四位下勲六等 劔神食封二十戸田二町」
3)『三代実録』貞観元年(859)「劔神 正四位下」
4)『権記』長徳四年(998)「劔大神宮 正一位勲一等」
5)『新抄格勅符抄』天平神護元年(765)「劔御子神 神封十戸」
6)北野七左衛門文書  伏見宮御所役口達所 
7)劔神社文書 劔大明神略縁起
8)劔神社文書 朝倉氏と劔神社の関係文書が数十点残されている
9)『朝倉始末記』
10)劔神社文書 藤原信昌・将広置文
11)劔神社文書 織田信長安堵状
12)劔神社文書 柴田勝家諸役免許状
13)劔神社文書 剣大明神領打渡目録
14)劔神社文書 享保迄心覚書
15)劔神社文書 劔大明神寺家屋敷帳
16)劔神社文書 結城秀康寄進状
17)劔神社文書 神谷昌次・乙部可正連署書状
18)『文徳実録』斉衡二年(855)「御子神宮寺 置常住僧聴度五人 心願住者五人 凡十一僧 永永不絶」

■参考文献  
『織田町史』織田町史編纂委員会 昭和46年
『織田町歴史資料館常設展示図録』織田町歴史資料館 平成13年
『延喜式内社劔神社と織田甕』織田町文化研究会 昭和55年
『御大典記念福井県神社誌』福井県神社庁 平成6年
『式内社調査報告』式内社研究会 昭和61年